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【連載】中世の村「田染荘小崎」を歩く 第6回 案内なくてなりがたし!? 道なき道の行者達の足跡を訪ねて

ページID:0002204 更新日:2022年10月25日更新 印刷ページ表示

中世の村「田染荘小崎」を歩く について

 このページでは、重要文化的景観「田染荘小崎の農村景観」追加選定を記念して、その構成要素・関連文化財について、連載で紹介し、その魅力を発信していきます。
 少しでも田染荘小崎に興味が湧いた方は、実際に現地を歩いてみてください。中世を流れた風の香りをきっと感じることができるはずです。

六郷満山の峯入りと田染荘小崎

 国東半島の谷々に拓かれた六郷満山では、僧侶達が一人前になるための修行として「峯入り」に励んでいました。「峯入り」とは六郷満山寺院群を一人でつくったとされる伝説的僧侶「仁聞」ゆかりの行場を巡り、国東半島の峰々を一周する修行で、斉衡2年(855年)の峯入りの記録が残る日本最古の峯入り行の1つです。
 田染荘小崎は伝乗寺(真木大堂)と高山寺の中間にも位置するため、両寺院の末寺として多くの霊場がありました。当時、六郷満山では寺院は「○○山」「○○岩屋」と呼ばれていましたが、田染荘小崎周辺には「○○岩屋」と呼ばれる寺院が多数あります(穴井戸岩屋・朝日岩屋・夕日岩屋・轆轤(ろくろ)岩屋・茅場堂(かやばどう)・良醫(りょうい)岩屋・払(はらい)阿弥陀堂)。

夕日岩屋周辺に登る行者たち(左)、畦をゆく行者たち(右)の画像
夕日岩屋周辺に登る行者たち(左)、畦をゆく行者たち(右)

文化財ワンポイント 岩屋とは?

 自然または人工的に造られた岩室を利用して造られた寺院を「岩屋」と言います。岩屋を中心に発達した寺院として、天念寺(長岩屋)・応暦寺(大岩屋)・無動寺(小岩屋)・霊仙寺(夷岩屋)などがあり、信仰の中心となる場所には岩屋が残されています。
 内部が数段に分かれており、「ほぞ穴」などの堂宇の跡、煤・土器などの祭祀の跡が残されていれば、そこは岩屋であった可能性があります。

【岩屋のモデル】(左)、【ほぞ穴(梁跡)】(中央)​、【煤が付いた天井部】(右)
【岩屋のモデル】(左)、【ほぞ穴(梁跡)】(中央)​、【煤が付いた天井部】(右)の画像

僧侶達のマニュアル本でも「案内なくてなりがたし」

僧侶達のマニュアル本でも「案内なくてなりがたし」の画像


 江戸時代になると、小規模な岩屋は寺院としての役割を終えて荒廃していきます。これは峯入りの修行を行う僧侶達にとっては一大事で、自分で岩屋を探しても簡単には見つけられないという状況に陥ってきます。
 そのため、六郷満山の僧侶達は峯入りのマニュアル本を作成します。その名も「豊州前後 六郷山百八十三所霊場記」。(1)霊場の通し番号、(2)所在する地名、(3)霊場の名前、(4)ご本尊、(5)次の霊場までの距離と行き方のアドバイスが書いてあるという優れものです。
 江戸時代の僧侶達はこれを使って何とか六郷満山183ヶ所の霊場巡りをしていたようです。「穴深く真っ暗な穴井戸岩屋には地元で松明をもらってから入るように」といったアドバイスもばっちり記載されています。

 しかし、田染荘小崎の峯道はマニュアル本でどうにかできるほど甘くは無かったようで、「案内雇いてよし」「案内連れてよし」「案内なくてなりがたし」といった具合に案内必須の難所が続き、最終的には「道なし」のみの記載が6連続という状態です。
 そのため、現在でも岩屋・峯道の場所を特定できている場所は一部であり、この全域の霊場を明らかにするのはかなり難しいとされています。

穴井戸岩屋(朝日山岩屋)の記述と写真

穴井戸岩屋(朝日山岩屋)の記述と写真の画像

地元の方の案内で岩屋に行ってみる

愛宕山大権現(愛宕社)の画像


愛宕山大権現(愛宕社)

 平成26年度、追加選定範囲内の構成要素調査のため、現在場所が判明している岩屋について、地元の方々に案内していただきました。GPSを利用して、岩屋の位置を特定することが目的ででした。
 岩屋の位置には諸説ありますが、今回は地元で伝わる場所を特定しています。

愛宕山大権現 本尊 愛宕大権現

地蔵堂(鶏亀地蔵堂)の画像

地蔵堂(鶏亀地蔵堂)

 第4回でも紹介した愛宕社のことです。江戸時代には真言宗系の山伏(加藤家)が住んでおり、神社で仏事を行い。愛宕大権現(勝軍地蔵など)を祀っていました。

地蔵堂 本尊 地蔵菩薩(案内雇いてよし)

轆轤岩屋の画像


轆轤岩屋

 空木地区の鎮守である奥愛宕社の鳥居の前にある「鶏亀地蔵堂」を指していると考えられます。鶏亀地蔵は六地蔵の1つにも数えられ、畜生道を見守る存在とされています。また別名「延命地蔵」ともいい、長生きに利益があるとされています。

轆轤岩屋 本尊 観音菩薩(案内連れてよし)

鞍懸山の画像


鞍懸山

 平成25年度に地元の方が発見された岩屋。「轆轤」というのは「縦に長いもの」を指すとされ(ろくろ首など)、縦に細長いこの岩屋が轆轤岩屋ではないかと推定されました。岩屋上部の煤は仏事の跡と推測されていますが、仏壇や祭祀跡は発見できていません。

 

 

鞍懸山・鞍懸岩屋 本尊 観音菩薩・妙見菩薩(山越し、案内なくてなりがたし)

 元は神宮寺と呼ばれた六郷山寺院があったとされていますが、南北朝時代には武士の押領によって城郭(奥畑鞍懸城)となっています。​

最勝山岩屋 本尊 薬師如来(山越し、道なし、案内なくてなりがたし)

最勝山岩屋(茅場堂)の画像


最勝山岩屋(茅場堂)

 轆轤岩屋が発見されるまで轆轤岩屋とされていた茅場堂には薬師如来の石仏が安置されており、最勝山岩屋だったのではないかと推測されています。小堂を伴い、かつては空木集落でおせったいも行っていたそうで、弘法大師の石造もあります。

良醫岩屋 本尊 薬師如来(道なし)

良醫岩屋の画像


良醫岩屋

 地元で「りょうさんが岩」と呼ばれる岩に造られることから良醫岩屋であると推定されています。仏壇が造られており、岩屋上部には煤がついています。峯道のような道が岩屋の両脇には辛うじて確認できますが、実際には殆ど不明です。

払阿弥陀堂 本尊 阿弥陀如来(道なし)

 田染小崎では最大級の横長の岩屋で、仏壇がしっかりと造られ、仏事を行うための段も石垣で造られています。払阿弥陀堂に旧在した石仏は、原地区の堂に安置されています(向かって右端の薬師如来)。現地には風滅仏が残され、荘厳な空間になっています。

払阿弥陀堂(ロッコさま)の画像


払阿弥陀堂(ロッコさま)

 今回の調査で、霊場記の記述・GPSのデータと航空写真・森林基本図と合わせてみると、それらの位置関係だけでなく、最勝山岩屋・良醫岩屋・払阿弥陀堂の標高が概ね同じであることが分かり、アップダウンの激しい行程ではなく、同高度をそのまま進むような峯道だったのではないかと新しい推定ができる結果となりました。

田染小崎周辺の峯道概要地図

田染小崎周辺の峯道概要地図の画像

※注意

今回紹介した岩屋の一部は、大変危険な道なき道の先にあるため、現段階では実際に見学することは推奨しておりません。文化財室としましても、案内及び登山指導はできかねますので、調査結果としての写真・データ等の提供までとさせていただきます。

次回は、「水田からホダ場へ 田染荘小崎の里山農業」を掲載します。


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