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「六郷山夷岩屋の寺社境内」という名称は聞きなれないと思いますが、市指定史跡「霊仙寺一帯」が県指定に昇格したものになります。豊後高田市では、約20年振りの新・県指定文化財となりました。
霊仙寺・実相院・六所神社を含む一帯が、中世には夷岩屋という六郷山寺院の一部であったということを踏まえ、指定名称は「六郷山夷岩屋の寺社境内」となりました(「六郷満山」は学問の世界では古文書での表記のままである「六郷山」と呼ぶ事が多いです)。
このページでは、史跡指定となった範囲について解説します。
現在では霊仙寺という名称が浸透していますが、中世には夷谷一帯が夷岩屋と呼ばれる1つの寺院境内でした。その開拓の歴史は、六郷山関係では最古級の古文書「余瀬文書」により、平安時代後期に夷岩屋の僧が仏事のかたわら耕した土地を、六郷山の高僧達の議決によって寺領化した経緯が詳しく分かっています。夷岩屋は末坊と呼ばれる小規模な寺院が連続するタイプの寺院であったようで、中世の頃には多くの僧侶達が暮らす1つの村に近い状態であったと考えられています。
霊仙寺という名が、古文書に見え出すのは戦国時代となってからで、根本坊と呼ばれる末坊が寺院に成長したものだと考えられています。また、都甲の戦国武将・吉弘氏の有力家臣・大力氏が夷出身であり、夷地区が盛んに行っていた鉄の精製技術を活かすため、吉弘氏による夷谷の支配が行われていたことも分かっています。
江戸時代になると、夷出身の板井派仏師が多く作品を残すようになり、中でも6mを越える巨大な地蔵菩薩の石像は九州最大とされています。
霊仙寺の隣に位置する実相院も、元々は夷岩屋の末坊が寺院化したものと考えられています。山号は霊仙寺と同じく夷山であり、今でも結びつきが強く残っています。
境内には、南北朝時代の国東塔が残されており、その大きさは国東半島屈指のものになります。塔身の首の部分が別材によって造られているなど、少し特殊なつくりをしています。
また裏手の墓地には、南北朝時代のものとされる板碑があり、この2つが史跡内では最も古い石造物になります。
六郷山寺院の境内にはよく六所神社と呼ばれる神社があります。他の六郷満山の寺院と同じように、夷岩屋にも六所神社があったことが古い史料から分かっており、明治の神仏分離までは寺院と親和性が強い空間でした(実相院国東塔などの一部の石造文化財は六所神社から移されたものと考えられています)。
本殿の裏には巨大な岩屋があり、礎石が等間隔に残っていることから、六所神社本殿の部分には夷岩屋の講堂(仏事を行う重要なお堂)があったと考えられています。僧形の磨崖像や、首の折れた仁王様など、現在でも寺院だった頃の名残が僅かながら残っています。
霊仙寺・実相院・六所神社から、竹田川を挟んで対面の山中には、中世から続く夷岩屋の墓地が残されています。五輪塔・国東塔・板碑などが大量にあり、夷耶馬の岩面を利用した磨崖碑・磨崖五輪塔も多数見られます。
巨大な注連縄が巻かれ、割れ目に落ちると二度と出て来られないという伝説のある兄弟割石の上にも、宝篋印塔が1基置かれています。
これらの構成要素が、六郷山夷岩屋の古代~近世にかけての寺院の状況を良く示しており、石造物群も規模・地域性の点から特徴的であると評価を受けたため、「六郷山夷岩屋の寺社境内」として県指定史跡に指定されました。
これにより、豊後高田市に所在する県指定文化財は53件となりました。また、県指定昇格に伴い市指定文化財は139件になりました(平成28年2月10日現在)。