ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 文化財室 > 鞍懸城を包囲せよ!国東半島の関ヶ原「田原親貫の乱」について

本文

鞍懸城を包囲せよ!国東半島の関ヶ原「田原親貫の乱」について

ページID:0002129 更新日:2022年10月25日更新 印刷ページ表示

 天正7~8年(1579~80年)にかけて、1年間にわたり国東半島のいたる所が戦地となった「田原親貫(たわらちかつら)の乱」は、国東半島の関ヶ原というべき規模の合戦でした。
 田原親貫が反乱を起こすことになった経緯、その後の合戦の経過について解説します。

若き田原親貫の悲劇

 国東半島の田原氏は、安岐や大田沓掛などに拠点を持った大友氏の分家の一族でした。しかし、戦国時代も後半になった頃、田原親述(ちかのぶ)は大友本家の反乱分子に幾度と無く加担するなど反抗的な態度を取って、討伐の対象となってしまい、その子・親宏(ちかひろ)も耳川の合戦で力を失いつつあった大友本家に高圧的な態度をとり、かつて没収された旧領を取り返し、更に大友家に反乱を起こそうとしたと考えられています。当時の田原氏の勢いは凄まじく、宣教師たちは親宏が府内に攻め入れば、大友氏は滅びると噂したそうです。
 しかし、反乱を起こす直前になって親宏は突然の病死。親宏には実子はおらず、養子の親貫(現・福岡県行橋市付近の武士・長野氏の出身で、まだ10代であったとされています)に跡目を継がせて息を引き取ります。

 水際で反乱は起こりませんでしたが宗麟の怒りはおさまりません。宗麟は田原家の正当な後継者は大友氏から輩出すべきと主張し、宗麟は自らの次男に田原親家と名乗らせて国東半島に送り込みます。
 これに親貫も黙っていません。自分こそが親宏から指名を受けた正当な跡継ぎであり、このまま追い出される訳にはいかず、親貫は大友本家に対して反乱を起こすのです。これが「田原親貫の乱」のはじまりです。

関係人物の家系図

関係人物の家系図の画像

2つの鞍懸城

 親貫は緒戦に苦戦を強いられます。府内への進軍が悪天候で失敗し、本拠地であった安岐城は大友氏の攻撃に耐えられずに陥落してしまい、親貫は西国東へと落ち延びます。
 しかし、親貫はその時の準備を着々と進めていました。田原氏の重臣であった如法寺親並(にょほうじちかなみ)・親武父子の「無類の才覚」によって、河内・鞍懸城の修築が行われ、佐野・奥畑にあった2つの小城は堅固な要塞へと変貌していました。
 佐野鞍懸城は、付近で採れる「薄く割れる石」を大量に積んだ石垣を持つ城郭で、野面積み(自然石を積む手法)でありながら急勾配であり、露頭を中心に組まれた縄張りは自然の要害と化していました。
 奥畑鞍懸城は耶馬の修行場につくられた六郷満山寺院・神宮寺を改造してつくられた城で、小規模ながら地形によって敵兵を退ける堅固な城郭でした。
 また、如法寺父子は、安芸国(現在の広島県)の毛利氏、親貫の故郷である豊前国(現在の宇佐・中津市及び福岡県東部)の長野氏・城井氏・野中氏らに援軍を要請しており、それらが到着すれば一気に形勢逆転という布陣をしいていました。
佐野鞍懸城(左)、奥畑鞍懸城(右)の画像
佐野鞍懸城(左)、奥畑鞍懸城(右)

鞍懸城大包囲作戦!

 親貫の作戦が明るみになり、親貫と援軍を接触させないよう、大友軍は鞍懸城の大包囲作戦を行います。幸い国東半島は細い谷が多い地域で、大友軍は交通の要衝で敵兵を追い返し、鞍懸城を孤立させます。

高田城主・柴田礼能

 反乱が始まって少し経った頃に、高田城主(桂陽小学校付近)に抜擢されたのは柴田礼能という人物でした。柴田礼能は豊後一の槍の使い手として宣教師らから「豊後のヘラクレス」と呼ばれた勇将で、礼能の名は洗礼名「リイノ」に漢字をあてたものです。当初から田原親家と共に国東半島に派遣されるなど、宗麟の信頼も厚い人物であったことが分かります。反乱鎮圧後には府内に屋敷を構えて城下町の整備などに取り組み、現在の大分の町並みの基礎は礼能が整えたともされています。
 高田城付近は、豊前国から親貫の援軍が押し寄せる激戦地で、港があった事から毛利氏の襲来も考えられる重要な拠点でした。礼能は西国東の水軍の拠点であった薄野(臼野)も任せられていました。高田城には航空写真でもはっきり確認できるくらいの巨大な堀と土塁が残されています。
高田城主・柴田礼能の画像

屋山城主・吉弘統幸

 耳川の合戦で父を失った吉弘統幸は、屋山城を堅固に改修し、都甲谷の守りを固めました。この時統幸は大友義統から「手火矢(九州での火縄銃の呼び名)」を授かっており、敵軍が攻め寄せる中、家臣等と共に屋山城に籠って応戦したことが分かっています。当時統幸は15才ほどであったとされており、合戦当初は大友義統から「太郎」という名で呼ばれていました。
 とりわけ「都甲境(現:払田あたりか)」と呼ばれた場所が、敵の補給線を絶つ上では重要な場所で、周防灘や高田地域が一望できる屋山城は重要な拠点でした(右下写真)。

屋山城主・吉弘統幸の画像

烏帽子岳城主・古庄鎮方

 同じく耳川の合戦で父・鎮光を失った古庄鎮方も、大友義統から「進允(しんのじょう)」と呼ばれていた事から、若武者であったことが分かります。
 古庄氏は田染小崎・平野の境に位置する烏帽子岳城を居城としており、城からは田染盆地が隅々まで見渡せました(現在山頂の眺望はよくありませんが、付近の林道からでも小崎、その奥に真中・横嶺などの地域が見え、付近の監視をする位置として十分な立地であった事がわかります)。
 また、田染地区は鞍懸城に近い地域にあり、鞍懸城の東側からの補給線を絶つ役割をしていました。杵築市・大田地区は「田原別符(べふ)」と呼ばれた土地で、田原氏の勢力が元々強い地域でしたので、田染地区を掌握することは重要な作戦でした。

烏帽子岳城主・古庄鎮方の画像
 これらの武将達によって、千部口・大利(応利)口・都甲境が封鎖され、親貫の援軍としてやってきた豊前国の武士・野仲鎮兼らを高田表で撃退し、毛利軍も高田に近づくことができませんでした。

田原親貫大包囲

(大きい画像はこちら[PDFファイル/386KB])

田原親貫大包囲の画像

鞍懸城の落城と田原親貫の最期

  堅固な鞍懸城での戦いは死闘を極め、主戦場となった「鞍懸表」では多数の矢が飛び交い、後の世になっても矢が落ちていたことから「矢原(やばる)」という地名になったと伝えられています。戦いは1年にも及び、国東半島史上最大の合戦となりました。
 田原親家や宗麟の腹心・田原紹忍(じょうにん)は国東半島の武士たちに親家方に付くように多くの書状を出しており、かつては田原氏の家臣として活躍した一族や、鞍懸城付近に住んでいた武士をも巧みに親家方に引き入れていきました。

佐野鞍懸城から見た矢原の景色の画像
佐野鞍懸城から見た矢原の景色

 その後、吉弘統幸の鞍懸城側の小屋の破却、古庄鎮方の家臣であった河野弾正忠の奇襲が成功するなど、親家方の攻撃が徐々に効くようになり、天正8年(1580年)10月、ついに鞍懸城は落城しました。何とか落ち延びた田原親貫も、宇佐を抜ける際に大友家臣・時枝氏に見つかって討ち取られたとされています。
 田原親貫の奮闘の甲斐なく、国東半島の名族・田原氏はここに滅亡したのです。

Adobe Reader<外部リンク>
PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe社が提供するAdobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。(無料)

豊後高田市魅力発信ページバナー ふるさと納税サイトバナー<外部リンク>