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【連載】中世の村「田染荘小崎」を歩く 第4回 田染荘小崎の「奥」の歴史を語る3つの神社

ページID:0002184 更新日:2022年10月26日更新 印刷ページ表示

中世の村「田染荘小崎」を歩く について

 このページでは、重要文化的景観「田染荘小崎の農村景観」追加選定を記念して、その構成要素・関連文化財について、連載で紹介し、その魅力を発信していきます。
 少しでも田染荘小崎に興味が湧いた方は、実際に現地を歩いてみてください。中世を流れた風の香りをきっと感じることができるはずです。

村絵図に描かれた「奥」の3つの神社

 前回紹介したヤマノクチイゼより、山側の地区は地元では「奥」と呼ばれる場所です。「ヤマノクチ」という地名は、水田の広がる「サト」の世界と、信仰の息づく「ヤマ」の世界の境界線を示しており、3つの神社が今も厚く信仰されています。
 今年の10月3日(月曜日)に文化的景観に追加選定された地区も、この「奥」と呼ばれる地域です。

愛宕社(左)、三嶋社(中央)、奥愛宕社(右)の画像
愛宕社(左)、三嶋社(中央)、奥愛宕社(右)

山伏・加藤家の住まう「愛宕社」

  田染荘小崎の水田を潤す愛宕池の名前の由来にもなった愛宕社は、池のすぐそばの丘陵部にあります。古い写真を見ると、鳥居から登る正式な参道の脇には、多くの畑があり、開けていた事が分かりますが、現在は鳥居より先に進むことはできません。池側から直進する道が付けられており、その先には田染荘小崎の鎮守・愛宕社の本殿が見えてきます。

愛宕社の位置(左)、愛宕社鳥居(右)​の画像
愛宕社の位置(左)、愛宕社鳥居(右)​

昭和初期の愛宕社付近(中央に鳥居)(左)、奥愛宕社 本殿及び拝殿(右)の画像
昭和初期の愛宕社付近(中央に鳥居)(左)、奥愛宕社 本殿及び拝殿(右)

 愛宕社は、京都・愛宕神社を総本社とする神社で、防火神として信仰されています。田染荘小崎の愛宕社も、火災防止のご利益がありますが、川潮汲み神事(雨乞い)の舞台になったことから、農耕との関連性が深くなっています。
 また、愛宕社には江戸時代に山伏が住んでいたことが知られています。江戸時代初期の『小倉藩人畜改帳』に愛宕社の記述がありますが、「山伏一軒、山伏二人」と記載されています。この山伏が愛宕社の近くに住んで、小崎村に関わる仏神事を取り仕切っていた山伏の家系・加藤家の人物と考えられています。
 『霊場記』には、愛宕社は「愛宕山大権現」と見え、「真言宗」ともあります。また、愛宕社にいた山伏たちは日出の蓮華院(現 愛宕山蓮華寺)の史料にも確認でき、蓮華院出身の山伏により田染荘小崎に愛宕信仰が持ち込まれたと考えられています。
赤「あたご山大ごんげん」黄「しんごんしう 山ふし」(左)、愛宕社拝殿(右)の画像
赤「あたご山大ごんげん」黄「しんごんしう 山ふし」(左)、愛宕社拝殿(右)

 山伏の墓は、直線の道の脇道にまとまって残っています。初期の自然石でできた墓石から、江戸時代後期の立派な石柱型の墓石までさまざまで、峯入り修行を終えた山伏に贈られる「大越家」の称号を冠する銘も多数見られます。墓石の変遷から一族で田染荘小崎の信仰を守り続けた山伏・加藤家の姿を垣間見ることができます。
自然石墓碑(左)、「大越家」を刻む墓碑(右)の画像
自然石墓碑(左)、「大越家」を刻む墓碑(右)

さらに奥の神秘的な世界へ「奥愛宕社」

 空木地区に向かうと一般に奥愛宕社と呼ばれる神社があります(空木地区の人は「愛宕社」と呼びます)。奥愛宕社は中世の愛宕信仰を現代によく伝えており、勝軍地蔵を御神体として祀っています。付近にあった地蔵様を祀る御堂の信仰と重なり合うことで、空木地区にも愛宕信仰が根付いたと考えられます。
 大きな台輪の付いた鳥居の先には、細い参道が長く続いています。鎮守の森は霊験あらたかな空間で、神聖さと荘厳さを強く感じさせます。途中急な坂道や石段のある参道を5分ほど登ると、奥愛宕社の拝殿が見えてきます。ご利益は愛宕信仰なので基本は火災防止ですが、不動明王・毘沙門天も祀っており仏法によるご加護もあるそうです。

奥愛宕社の位置(左)、奥愛宕社鳥居(右)の画像
奥愛宕社の位置(左)、奥愛宕社鳥居(右)

奥愛宕社の参道(左)、奥愛宕社拝殿(右)​の画像
奥愛宕社の参道(左)、奥愛宕社拝殿(右)​

奥愛宕社本殿(左)、奥愛宕社狛犬(右)の画像
奥愛宕社本殿(左)、奥愛宕社狛犬(右)

 奥愛宕社では毎年7月に例祭を行っています。まず氏子代表は、垢離場と呼ばれる川中の岩風呂で身を清めて神事に臨みます。その後、奥愛宕社境内では、火災防止にちなんで、マイギリによる火起こしが行われ、その火を使った献燈が行われます。地区の人々にとって、この火起こし神事は、1年に1度、火のありがたみや、神聖さを再認識する機会としても重要な役割を果たしており、今にも信仰が息づいています。
火起こし神事の様子(左)、神前への献火(右)の画像
火起こし神事の様子(左)、神前への献火(右)

河野氏の守り神「三嶋社」

 小藤地区には三嶋社があります。三嶋社は村絵図では「山神」と書かれ、元々は農耕の神である山神を信仰していたことが分かります。
 江戸時代の前期に小藤に住んでいた河野一族が、杵築市山香の三嶋社から、氏神である三島大明神を分祀し、三嶋社となりました。

 河野氏は、伊予国(現在の愛媛県)の島嶼を舞台に活躍した武士の一族で、戦国時代の終わり頃に伊予を追われますが、烏帽子岳城主・古庄鎮方の配下として田原親貫の乱で大きな戦功を挙げ、「方」の字と小藤名を授かりました。

三嶋社の位置(左)、三嶋社鳥居及び拝殿(右)の画像
三嶋社の位置(左)、三嶋社鳥居及び拝殿(右)

三嶋社本殿(左)、古庄鎮方書状(河野氏に小藤を与え家臣にするとある)(右)の画像
三嶋社本殿(左)、古庄鎮方書状(河野氏に小藤を与え家臣にするとある)(右)

 その後、河野氏は田染地区一帯や、都甲地区一畑などに広がってゆき、各地で活躍しました。河野氏の子孫は、一族の繋がりを大事にし、年に1度、家系図をお祭りする「系図祭」を行ったり、古い時代の先祖の墓をつくって祀っています。
河野氏の系図(左)、系図中の通秀の墓(先祖墓)(右)の画像
河野氏の系図(左)、系図中の通秀の墓(先祖墓)(右)

 一畑では河野次郎右衛門が県下でも最古級の私塾・戴星堂を開き、庄屋となった河野一族によって傾斜20度を超える棚田が拓かれました。やがて一畑の六郷満山寺院・虚空蔵岩屋にも、河野氏によって三嶋社が勧進されました。

戴星堂跡(「寺子屋跡」として市指定史跡)(左)、都甲・一畑の三嶋社(右)の画像
戴星堂跡(「寺子屋跡」として市指定史跡)(左)、都甲・一畑の三嶋社(右)

 田染荘小崎の奥の信仰は実に多様で、人々の生活やルーツに即しています。これら地域密着型の信仰は現代にも伝わり、田染荘小崎の人々の生活を精神面から支えているのです。

次回は「空木池築立物語 ~村の宝池ができるまで~」を掲載します。


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