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今年も雨が多い季節になりました。雨が続くと外出もできず、すこし退屈な気分になりますが、国東半島の長い歴史の中では、農耕のために雨を呼ぶ「雨乞い(あまごい)」が必要とされてきました。雨の季節に、市内に残る雨乞いの文化財について勉強してみましょう。
分かりやすい雨乞いの手法としては、山頂で多くの竹木を焚いて、雨雲を呼ぶとされた「千把焚き」があります。
昭和33(1958)年、豊後高田市内において未曾有の大干害となりました。7月頃より深刻さが増し、8月の「またまこうほう」には、炎天下の中、猪群山で千把焚きがとりおこなわれたことが書かれています。時を同じくして屋山でも千把焚きが行われ、記録写真が残されています。
猪群山の飯牟礼神社で祈祷の後に、屋山では長安寺の住職による祈祷と共に行われたようで、神仏習合の国東半島らしい信仰の姿が見えます。
猪群山環状列石(市指定史跡)(左)、飯牟礼神社(右)
屋山における千把焚きの様子(昭和33年)
次に市内で最もポピュラーな雨乞いの手法で「潮汲み(小規模な場合川汲みとも)」というものがあります。「潮汲み」とは、干ばつの際に付近の川や海などで、水を汲んで持ち帰り、神社などの神域・各家庭で供えたり撒いたりすることで雨を呼ぶ神事のことです。
田染荘小崎の場合、最も軽微な川汲みは小崎川から行い、少し深刻になると田染三社の氏子と共に鎧淵(田染地区における桂川の最下流部)で潮汲みを行い、それでも雨が降らず干ばつになると行列をつくって玉津・権現鼻(ごんげのはな、現・権毛)まで行って船を出し、田染三社の神主が祈祷を行いながら大潮汲みを行ったとされます。大潮汲みの行列には修正鬼会でおなじみの鬼が登場します。鬼が暴れるほど雨が降るとされていたようです。
この権現鼻は玉津の海の玄関口で江戸時代の絵図にも船が見られます。他の地域の潮汲みを行う時にもこの権現鼻は重要視されたようで、春日神社の潮汲みも権現鼻を目指しましたし、加礼川では現・並石ダムにあった轟淵(とどろきふち)が権現鼻の海に繋がっていると言い伝えられていることから、そこで潮汲みを行いました。
春日神社潮汲絵巻[PDFファイル/1.8MB](市有形文化財、行列の先頭付近には鬼の姿が)
江戸時代の絵図に見える「ゴンゲ」と船舶(左)、ホーランエンヤの宝来船も権現鼻から(右)
それでも雨が降らない時は、村人達も最終手段にでます。
竹筏を作って、田染三社の神輿を乗せ、潮汲みを行った鎧淵に繰り出します。そして雨が降るまで、神輿は川中に浮かべておいて、川岸でお籠もりをし続けるのです。聖なるものを川水につけることで、水をつかさどる龍神に雨を乞うとされているこの雨乞いの方法を「川勧請(かわかんじょう)」といいます。
川勧請は昭和4(1929)年に行われており、その頃の写真や、川勧請の様子を描いた絵馬が元宮八幡宮に残されています。
川勧請の行列(左)、昭和4年の川勧請(鎧淵)(右)
昭和4年の川勧請を描いた元宮八幡神社の絵馬
都甲の築地では、金宗院の地蔵様(写真左)を使います。井桁型につくった木枠の中心に地蔵様を立て、そのまま淵に持っていって沈めました。並石ダムの轟淵では、かつて銅板法華経を沈めて、その功徳で川底の龍神に降雨を祈願したこともあったそうです。
細い谷筋にそって集落を持つ国東半島では、時に農業用水が不足することがありました。様々な形で雨乞いにまつわる文化財が残されていることからも、地域にとって雨がいかに大事なものであったかが分かりますね。