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【統幸公ゆかりの地・其の一】金宗院跡

ページID:0002034 更新日:2022年10月25日更新 印刷ページ表示

吉弘氏菩提寺 金宗院跡(きんそういんあと)

かつての金宗院の画像
かつての金宗院

現在の金宗院跡の画像
現在の金宗院跡

 金宗院は禅寺で永享8年(1436年)の開基と言われ、大友氏の重臣で、屋山城主であった吉弘氏の菩提寺として栄えました。
 吉弘氏は、大友氏の重臣として、中国地方の大内氏に対抗するため、屋山城主として当地を治めていました。吉弘家は、柳川城主(福岡県)立花宗茂(たちばな むねしげ)を輩出し、また、朝鮮出兵(1592年)などで多くの武功をあげた一族です。(※家系図については、「地域の戦国武将吉弘統幸の基礎知識」をご覧ください。)
 吉弘家最後の当主である悲運の武将吉弘統幸(よしひろ むねゆき)は、関ヶ原の戦い(1600年)で豊臣方についた大友義統(おおとも よしむね)軍の武将として、黒田如水(官兵衛)の軍と石垣原(別府市)で戦い、孤軍奮闘のうえ壮絶な討ち死にをしました。当時の金宗院住職は、ひそかに統幸の首級(しゅきゅう)を持ち帰り、寺内に葬りました。
 終戦後、寺は無住となり、寺屋は崩壊し、金宗院の名前が残るのみとなっていましたが、吉弘氏の子孫や地区の住民により供養塔が建てられ、金宗院跡として遺されています。

境内の石造物

仁王像(吽形)の画像
仁王像(吽形)

 金宗院の境内では、多くの石造物を見つけることができます。
 本堂手前に見られる多くの石造物のほとんどは、江戸時代に作られたことが分かっており、往時の金宗院が栄えていたことを物語っています。

 入り口の石段を上がったところにある石造仁王像は、文化13年(1816年)に作られたもので、勇ましい姿をしています。

羅漢像の画像
羅漢像

その先の右手には、表情豊かな羅漢像が並んでいます。

 吉弘統幸の墓は、石垣原(いしがきばる)の戦いの後に統幸が弔われたその地に立っています。また、そのすぐ隣にある国東塔は、統幸の父である吉弘鎮信(よしひろ しげのぶ)のものであるとされています。

統幸公の墓の画像
統幸公の墓

父・鎮信公の国東塔の画像
父・鎮信公の国東塔

金宗院跡へのアクセス

 県道29号線と県道548号線の交差点付近にある駐車場から金宗院跡まで、310mほど歩きます。(案内板があります)
 跡地周辺には車を停めるスペースがありませんので、ご注意ください。


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