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このページでは、重要文化的景観「田染荘小崎の農村景観」追加選定を記念して、その構成要素・関連文化財について、連載で紹介し、その魅力を発信していきます。
少しでも田染荘小崎に興味が湧いた方は、実際に現地を歩いてみてください。中世を流れた風の香りをきっと感じることができるはずです。
国東半島は中央の両子山の火山活動によってできた半島で、岩場の風食により形成された多くの細い谷に集落がつくられています。そのため国東半島中の多くの場所には、水不足との戦いの歴史が残されています(関連ページ:豊後高田と雨乞い文化)。
国東半島の水不足を補ってきたのは、多くの「ため池」でした。小崎村の絵図を見ても、2つの池が書かれており、右側の池は愛宕池、左側の池はキレイケと考えられています。愛宕池は現在でもありますが、キレイケは現存していません。現在は付近にあるイゼ「キレイケイゼ」や、シコナ「キレイケ」から、絵図と同じ場所に池があり、キレイケと呼ばれていたと推定されています。
小崎村絵図中の「ため池」
愛宕池(左)、キレイケ跡地(右)
このように小規模な池を連結させ、必要な水を節約しながら水田に引く農業システムは世界農業遺産でも高く評価されています。
小規模なため池を多数使う方法では、水田の開発者が独自に造池をしているため、技術が未熟で壊れやすく、水の溜まり方に差が出る状況がありました。また、多数の池には、それぞれ管理が必要で、その維持には大変な労力が必要でした。そのため、広い範囲に水を届けることができる大きなため池を求めていました。
江戸時代後期になると島原藩は田染地域の池の改修に乗り出します。上野村や真木村などでは、村人総出でため池の工事が行われ、巨大な新池が誕生していきました。
そして、天保6年(1835年)、島原藩は小崎村・空木でも最も高い「峠」に新池を造ることを決定します。奉行に任命された高橋弥兵衛正路は、一足先に新池の工事に成功していた上野村の渡辺伝左衛門に智恵を借りながら、工事の指揮に取り組みました。
造池には約3万人が駆り出されたとされています。正路は池の工事に際する幾つかの決まり事を定め、工事を円滑に進めました。
その一部を紹介すると、池の堤防を造るときには切ったばかりの木では重いので、乾いた材木を使うこと(できれば、古い家屋の柱や梁を使うのがよい)、人夫の賄いは質素なものを心がけ、豆腐などがよいこと、里までの往復の無駄を省くため、現場に納屋を建ててそこで寝泊りすること、山の瘴気(毒気)にやられないように注意すること、酒は少々にすることなどがありました。
本来3ヶ年の工事が計画されていましたが、池の工事は早く進み、天保7年(1836年)に、空木池(峠の池)が完成しました。空木池は小崎川の源流に位置し、小崎村全体に水を広く届けることができます。
空木池
空木池の工事を監督した田染上野・渡辺家には、高橋正路が記した「小崎村空木池築立大概様子書」と呼ばれる報告書の写しが伝わっています。
その末尾部分には、奉行・高橋正路が空木池の完成を振り返って一文を残しています(一部意訳です)。
「空木池は人々の苦労によってできた『永代村之宝池』であるが、後々になってその恩も忘れ、手入れ等がぞんざいになれば、池内が埋まって水溜りが減ったり、修理を怠れば破損に至ったりする。空木池の築立は容易なものではなく、六十年来人々が願い続けて漸くできた池なのである。後の世になっても、先祖達がこのように骨を折ってできたということを、よく伝え知らせて、池の管理がぞんざいにならないようにと祈り、池の工事のあらましを書き綴ったのである。」
この文章から、高橋正路の工事に対する並々ならぬ思いを感じ取ることができますし、その思いが通じて、180年経った現在でも田染荘小崎の人々は空木池を「村の宝池」として大切に守り続けています。
次回は「案内なくてなりがたし!? 道なき道の行者達の足跡を訪ねて」を掲載します。