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六郷満山の至宝 真木大堂の諸仏について

ページID:0002198 更新日:2022年10月25日更新 印刷ページ表示

 平安時代、僧侶達の修行場であった国東半島に、天台宗が流入したことで、九州にして都のような仏教世界「六郷満山」の文化が花開きました。中でも木彫仏は当時の仏教文化の花形で、鋳造仏や乾漆像にはできない、日本独自の鋭さと柔らかさの調和した表現が好まれました。
 豊後高田市には国指定重要文化財の木彫仏だけでも14点があり、その内9点の仏像が所在するのが真木大堂です。ここでは、六郷満山の至宝とされる真木大堂の諸仏について解説します。
真木大堂・収蔵庫(左)、真木大堂・旧本堂(右)の画像
真木大堂・収蔵庫(左)、真木大堂・旧本堂(右)

幻の大寺院・伝乗寺の大堂に伝わった9躯の仏像

 真木大堂は、かつて馬城山伝乗寺(更に古くは喜久山(きくやま))と呼ばれた大寺院で、その寺域は現在の田染真木にとどまらず、真中・小崎・横嶺へと伸びて、西叡山と接するあたりにまで広がり、夕日岩屋・朝日岩屋・稲積岩屋(鍋山磨崖仏)などの7の末寺、大門坊をはじめとする36もの坊をしたがえていたとされています。
 鎌倉時代の六郷満山の様子を記した「六郷山諸勤行幷諸堂役祭等目録写」によると、喜久山には丈六(仏像の背丈の基準で、立像であれば高さ4.85m、坐像であれば高さ2.43mが本物の仏様と同じサイズと考えられました。単に仏像が大きいことを表すこともあります。)の阿弥陀如来、不動明王、大威徳明王が、今と変わらぬ組み合わせで安置されていたということが分かっています。

木造阿弥陀如来坐像

木造阿弥陀如来坐像の画像

 像高216cm。檜材の寄木造り。彩色は肉身に漆箔、螺髪に群青、衣に朱色が見られます。伏し目がちな円満相に、法衣の流れるようなリアルな衣文は11世紀後半に京都で流行した定朝様の様式を取り入れています。高い肉髻と大粒の螺髪、やや面長で唇を強く引き結ぶ顔立ちなどは、定朝様流行以前の古様です。
 富貴寺大堂などと共に、平安時代後期に近畿地方で隆盛した末法思想が、遠く離れた国東半島に伝わっていたことを示すもので、日本文化史全体からみても非常に貴重な仏像です。

木造四天王立像

 阿弥陀如来を四方から守護する四天王は、阿弥陀如来像より少し後、在地仏師によって制作されたと考えられています。像高はすべて160cmほどで、ほとんど人間のサイズで造られています。
 北の多聞天(毘沙門天)、南の増長天、東の持国天、西の広目天は、それぞれ甲冑を身にまとい、籠手・脛当をつけ、沓を履き、邪鬼を踏みつけています。
木造四天王立像の画像
多聞天(左)、増長天(中央左)、持国天(中央右)、広目天(右)

木造不動明王及び二童子像

木造不動明王及び二童子像の画像

 像高255cm。榧材の寄木造り。木彫の不動明王としては日本最大級。二童子は130cmほどで、檜材・寄木造り。不動明王は、険しい表情で悪魔を撃退し、煩悩を断ち切り、とりわけ六郷満山では峯入り中の行者が真言を唱えることでその守護を得ると信仰されています。
 頭髪は巻髪・辮髪。丸顔の面貌は天地眼、上下の牙がのぞく忿怒相で、立体的な火焔光背は上部に迦楼羅が渦巻いており、不動明王らしい迫力が伝わってきます。

文化財ワンポイント:二童子とは?

 不動明王の両脇に控える脇侍(わきじ・きょうじ)は、矜羯羅(こんがら)童子・制吒迦(せいたか)童子の二童子で、3体の仏像をもって信仰する形態を不動三尊形式と言います。市内の不動明王でも川中不動や無動寺などで見られ、風化により確認しづらいですが、実は熊野磨崖仏不動明王の左右にも二童子が控えています。
 二童子のうち、矜羯羅童子は肌が白く合掌しながら不動明王を見上げる姿で、制吒迦童子は肌が赤く金剛杵・金剛棒などの武器を持っている姿でつくられます。
矜羯羅童子(左)、 制吒迦童子(中央)、熊野磨崖仏の矜羯羅童子(赤枠内)(右)の画像
矜羯羅童子(左)、制吒迦童子(中央)、熊野磨崖仏の矜羯羅童子(赤枠内)(右)

木造大威徳明王像

木造大威徳明王像の画像

 像高241cm。樟材の一木造り。わが国最大の大威徳明王像です。西方を守護する阿弥陀如来の化身で、阿弥陀如来・文殊菩薩が悪鬼と戦い、人々を教え導くために、それぞれ明王・水牛の姿に変じたとされています。日本では珍しい多足の像で、水牛に跨る姿が印象的です。
 6つの顔は六道(天上から地獄までを6つの段階に分けた世界)を見渡し、6本の腕で多数の武器を持ち、壇陀印を結んで四方の悪鬼を撃滅し、6本の足は六波羅蜜(仏教で実践すべき6つの項目)をひたすらに歩む姿を表しています。

文化財ワンポイント:大威徳明王像をめぐる農村の信仰

 大威徳明王は水牛に跨る姿から、農村においては農耕・牛馬の守り神としても信仰された歴史があります。その法力を込めた大豆を牛馬に食べさせたり、古くから伝わる版木で作られる祀符を馬屋の柱に貼ったりして、牛馬の疫病を防いだとされています。
 そのような信仰から、大堂の前では牛馬市が開かれるようになり、桜馬場という地名が現在も残っています。
大威徳明王像の水牛(左)、祀符(中央)、真木村絵図に描かれる桜馬場(右)の画像
大威徳明王像の水牛(左)、祀符(中央)、真木村絵図に描かれる桜馬場(右)


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