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大坂の陣でも大活躍!日本無双の戦国武将・立花宗茂について

ページID:0002174 更新日:2022年10月26日更新 印刷ページ表示

 豊後高田市では、都甲地区出身の戦国武将として吉弘統幸の顕彰事業を行っています。都甲地区は大友氏の重臣・吉弘一族の本拠地であり、統幸の他にも有名な戦国武将を多数輩出しています。
 このページでは、吉弘統幸の従弟で「日本無双」と称えられた戦国時代のスーパースターについて紹介します。

そう、彼の名は立花宗茂(たちばな むねしげ)!

吉弘家系図の画像
吉弘家系図

 永禄10年(1567年)立花宗茂は吉弘鎮理(しげただ、後の高橋紹運)の嫡男として、都甲谷・筧城に生まれたとされています。幼名を千熊丸といい、吉弘統幸の従弟にあたります。
 しかし、その数年後、父・鎮理が、大友氏に反乱を起こし滅亡した高橋家を継ぐと、それに付いて筑前国の岩屋城・宝満城に向かいます。やがて若者になった千熊丸は、高橋統虎(むねとら)と名乗ります。
 その後、父・鎮理は高橋紹運と名乗るようになり、同じく立花家の名跡を継いだ立花道雪と共に、九州北部の合戦で大活躍します。大友家に比類なき猛将2人の関係が後の統虎の人生を大きく左右します。
 道雪はすでに高齢でしたが男子に恵まれていませんでした。そこで、戦友・高橋紹運に統虎を養子に迎えたいと頼み入れたのです。統虎は道雪の娘・ぎん千代(「ぎん」は門構えに言)と結ばれ、名族・立花家の跡取りとなったのです(宗茂と名乗るのはまだ先の話ですが、ここからは宗茂の標記で統一します)。
 宗茂は、父・紹運や、義父・道雪の指導もあって、兵法・政治の実力をメキメキとつけていきました。武術にも優れ、剣術はタイ捨流の免許皆伝を受けた他、自ら新しい流派を編み出すほどでした。更には文化・芸術にも秀でており、茶道では利休七哲の細川忠興と親交が深く、小早川隆景と共に蹴鞠の達人としても知られていました。

秋の都甲谷(左)、​筧城跡伝承地(右)​の画像
秋の都甲谷(左)、​筧城跡伝承地(右)​

「日本無双」の戦の天才へ

立花宗茂肖像(福厳寺所蔵・写真データ提供:柳川古文書館)の画像
立花宗茂肖像(福厳寺所蔵・写真データ提供:柳川古文書館)

 天正14年(1586年)、島津氏との激戦の中で、父・紹運は筑前・岩屋城で決死の抗戦の末に戦死し、島津軍は宗茂のいる立花山城へと迫ります。宗茂にはおよそ千人程度の兵士しか任されていませんでしたが、島津軍を翻弄して撤退させ、追撃を掛けて父の玉砕した岩屋城を取り返しました。これを皮切りに、宗茂は豊臣秀吉の配下として九州征伐に参戦し、西側(熊本を通り鹿児島に向かう)ルートの先鋒として、竹迫城、宇土城、出水城、大口城を次々と陥落させる戦功をあげました。宗茂は秀吉から「九州一」の忠義と武勇を持つ武将だと称えられ、筑後柳川に13万2000石を与えられて、大名となりました。
 その後、肥後一揆などで戦功を積み重ね、小田原征伐に従軍したときには、秀吉は家臣の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と紹介したと伝えられています。
 宗茂は朝鮮出兵でも随一の働きを見せます。西国東郡の歌に「筧の第の宗茂は碧蹄館(へきていかん)の花と咲き」とあるのは、文禄の役・碧蹄館の戦いでの宗茂の活躍を歌詞にしたものです。慶長の役でも蔚山(うるさん)城の戦いなどで活躍し、秀吉からは「日本無双の勇将」と評され、戦友・加藤清正からも「日本第一の勇将」と称えられました。

関ヶ原の戦いと大坂の陣 その時、宗茂は・・・

立花氏庭園(柳川城)の画像
立花氏庭園(柳川城)

 関ヶ原の戦いの際、宗茂は徳川家康から東軍につくように説得をされますが、「秀吉公の恩義を忘れることはできない」と言って西軍についたとされます。宗茂は高田城の竹中氏などを誘い、大軍を率いて関ヶ原へと向かいます。宗茂の扱いはまさに「西軍の切り札」ではありましたが、京極氏の守る大津城で足止めをくらってしまい、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。
 宗茂が柳川に戻ると、城はすでに石垣原の戦いで吉弘統幸らに勝利を収めた黒田官兵衛や、かつての戦友・加藤清正らに包囲されていました。清正の説得によって柳川城は開城させられ、宗茂は大名を改易になってしまいました。
 それからしばらく宗茂は全国を流浪する旅を続けますが、かつては東西で並び立つと称された本多忠勝の推挙によって江戸城に召しだされ、御書院番頭(将軍の守護を行う役目)として取り立てられます。その後、徳川秀忠の御伽衆として大名に復活します。

 そして、大坂夏の陣では、将軍・秀忠の参謀として参戦し、城兵の動きなどを次々と的中させたり、毛利勝永の兵を退けたりと大活躍しました。それらの戦功をもって、柳川藩10万9200石の大名として、復活を成し遂げたのでした。
 関ヶ原の戦いで改易された大名で、旧領に大名として復帰できたのは、立花宗茂ただ1人だけですので、宗茂がいかに優れた武将として、また、忠義にあふれる人物として信頼されていたかが分かります。


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