ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 文化財室 > 素通りなんてもったいない!富貴寺参道の石造文化財たち

本文

素通りなんてもったいない!富貴寺参道の石造文化財たち

ページID:0002161 更新日:2022年10月25日更新 印刷ページ表示

 国指定史跡富貴寺境内には魅力あふれる石造文化財が多数残されています。いち早く国宝・富貴寺大堂が見たい気持ちは分かりますが、参道脇の石造文化財にも目を向けてみてください。

国史跡・富貴寺境内(国宝・富貴寺大堂)(左)、富貴寺・参道(右)の画像
国史跡・富貴寺境内(国宝・富貴寺大堂)               富貴寺・参道       

富貴寺十王石殿【県指定有形文化財】

 富貴寺参道の入口の両側に立っている家屋型の石造文化財を「石殿」といいます。仏殿を表現していて、入母屋造の屋根と、内部に多くの仏像が彫られることが特徴です。実は国東半島にそのほとんどが分布する珍しい石造文化財です。
 この富貴寺十王石殿は、現在中之島旅館に置かれる長岩屋の石殿の次に古い(南北朝時代)とされている秀作で、他の石殿と比べても細部まで造りこまれています。彫られているのは、十王(死後の人間を裁く10人の王様のこと。中でも閻魔王が有名です。)で、中世の富貴寺で流行した預修(十王を祀ることで生前の罪を軽減するもの。)の対象だったと考えられます。この十王石殿には、浄玻璃鏡(じょうはりきょう・亡者の生前の罪を映し出す)・檀拏幢(だんだとう・閻魔王の裁判の結果を告げる)まで刻まれています。

​十王石殿(右)の画像浄玻璃鏡(内面)の画像
  ​十王石殿(右)                   浄玻璃鏡(内面)

​十王石殿(左)の画像檀拏幢(内面)の画像
​十王石殿(左)                  檀拏幢(内面)

富貴寺石幢

 富貴寺参道の向かって左側に立っている燈篭みたいな石造文化財を「石幢」といいます。幢(どう)とは仏堂の装飾のために提げられる筒状の旗であり、石で表現する際には、大きな笠と多数の仏像を竿(円柱や角柱)で支える形状をしています。
 富貴寺石幢は六地蔵を表現しています。六地蔵はそれぞれ六道(仏教における6つの世界、天人が暮らす天道以下、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道に分かれています)を見守る存在として信仰されており、よく墓地などに置かれています。六角形の笠には稜線がまっすぐ伸び、他の部分の造りもメリハリがきいており、室町時代前期の作とされています。

富貴寺石幢(左)、六地蔵部分(右)の画像
富貴寺石幢                      六地蔵部分

富貴寺板碑【県指定有形文化財】

 富貴寺大堂の脇に立てられているのが富貴寺板碑です。この板碑には文字が刻まれており「延文六年(1361年)」に「祐禅大徳」の「七年忌」のために造られたことが分かっています。祐禅大徳は国宝・富貴寺大堂の棟木の部分の墨書にも登場し、文和2年(1353年)の大堂修理の際に学頭として参画した人物です。富貴寺の歴史を記している重要な板碑なのです。

富貴寺板碑(左)、旧棟木の部分(右)の画像
 富貴寺板碑                    旧棟木の部分

富貴寺笠塔婆【県指定有形文化財】

 石段を登って右側にあるのが、富貴寺笠塔婆の内の1基です。笠塔婆とは柱状の塔婆に笠と宝珠を乗せた珍しい石造文化財で、富貴寺笠塔婆は仏像の代わりに梵字を多数彫り込んでいます。仁治2年(1242年)の銘は市内では最も古いもので、大堂脇に並んでいる4基、別府市美術館前にある1基と一連のものであるとされています。6基に共通する造立者「広増」は、当時の富貴寺の院主であると考えられ、様々な梵字から阿弥陀如来への信仰を基調としながら、不動明王・薬師如来・釈迦三尊・大日如来など、多くの信仰が混淆した当時の密教の様子をよく示しています。

富貴寺笠塔婆(左)、実測図(中央)、富貴寺笠塔婆(大堂西側)(右)の画像
富貴寺笠塔婆(左)、実測図(中央)、富貴寺笠塔婆(大堂西側)(右)

その他

富貴寺では、他にも色々な石造文化財が出迎えてくれます。
それらの石造文化財については、『史跡富貴寺境内保存管理計画』に詳しくまとめてあります。
その他の画像


豊後高田市魅力発信ページバナー ふるさと納税サイトバナー<外部リンク>