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国宝・富貴寺大堂の内部、内陣の左奥に安置されている「富貴寺地蔵石仏」と、同じく富貴寺大堂の西側、県指定文化財の笠塔婆の裏手にある「富貴寺十王石仏 附 奪衣婆石仏(だつえばせきぶつ)及び 地蔵石仏」を豊後高田市指定有形文化財(美術工芸品)として指定しました。
「富貴寺地蔵石仏」は、2018年2月6日に「石造地蔵菩薩坐像」として県指定有形文化財に昇格しました。以下のリンク先から詳しい記事をご覧ください。
【富貴寺の「石造地蔵菩薩坐像」が県指定有形文化財に指定されました!】
富貴寺地蔵石仏は、その背面に「応安元年(1368年)乙(2)月一日 願主王盛久」と文字が刻まれており、南北朝時代中期に作成されたことが分かっています。市内には他にも作風から南北朝時代のものとされる石仏はありますが、造られた時期や経緯がはっきりしている像は極めて貴重です。地獄におちた人間を救ってくれる地蔵菩薩は中世の富貴寺において深く信仰されました。
富貴寺地蔵石仏 背面の文字
「富貴寺十王石仏 附 奪衣婆石仏及び地蔵石仏」は、作風から南北朝時代のもの(上の富貴寺地蔵石仏よりはやや新しい)とされます。十王信仰は中世以降、国東半島に持ち込まれた信仰で、閻魔大王をはじめとする地獄の裁判官を信仰し、地獄におちた自らの救済を目的としています。大堂内部に展開する極楽浄土の世界と対比されるものとして安置されたと考えられます。
奪衣婆は三途の川の渡し賃を持たない亡者の衣服を奪い罪の重さを量る仏様で、十王と共に祀られることが多くありますが、市内における中世の奪衣婆石仏の作例は他にありません。
また、日本では地蔵菩薩は閻魔大王と表裏一体の存在と考えられており、十王信仰との関連性も高いです。
仏教の世界では、人間は死後の世界に行く前に、「中陰(ちゅういん)」と呼ばれる存在となって、十王の裁判を受けることになります。裁判は死後7日目から三回忌まで10度行われ、内容によって様々な地獄に落されてしまいます。源信の『往生要集』以降、生前に十王を信仰することで罪を軽減する「預修(よしゅう)」が流行し、その考え方は中世以降、国東半島にも持ち込まれました。
中世の日本では、十王に対応した仏様を信仰することが流行し、十王に3尊を追加する十三仏という日本独自の信仰に変化していきました。十王の中でも閻魔大王が特に有名ですが、閻魔大王に対応する仏様は「地蔵菩薩」であると考えられています。
富貴寺十王石仏 附 奪衣婆石仏及び地蔵石仏
十王石仏 奪衣婆石仏
豊後高田市では、「富貴寺地蔵石仏」「富貴寺十王石仏 附 奪衣婆石仏及び地蔵石仏」の美術的価値を評価し、後世に保存・伝承していくため、市の有形文化財(美術品)として指定しました。これにより、豊後高田市指定文化財は全部で140件になりました(平成27年10月30日現在)。