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仏像?神像?不思議な太郎天の謎について

ページID:0002179 更新日:2022年10月25日更新 印刷ページ表示

子供の姿をした国東半島の神「太郎天」

子供の姿をした国東半島の神「太郎天」の画像

 

 中世の六郷満山で最大の寺勢を誇っていたとされる長安寺。その寺宝の中でも特に有名なのが、木造太郎天像(国指定重要文化財)です。「○○天」という名前の仏像は、インドの神様をモデルにしたもので、「帝釈天」「毘沙門天」のように沢山ありますが、「太郎天」という名の像は国東半島独自のものだと言えます。今回は不思議な太郎天の謎に迫ってみましょう。

 

 太郎天の一番の特徴はその姿にあります。太郎天は聖徳太子のような「みずら(角髪・美豆良)」をしていますが、これは平安時代以降では主に子供の髪型で、長安寺鳥居などに残る「太郎天童」という文言にあるように、古代の子供の姿をしています。太郎というのも日本古来の子供の名前であり、太郎天は子供をモチーフに造られたことが分かります。
 山岳宗教において、子供は神聖な存在とされています。太郎天も国東半島・修験者を守り神として崇敬を集めました。民話では高天原の神様にかけあって真玉・湯原の温泉をつくったのも太郎天だと伝えられていますね。そうした信仰の変遷の中で、木造太郎天像は江戸時代には日本古来の神様とされ、長安寺境内の六所神社に祀られていました。
 六所神社には若宮八幡宮の祭神(応神天皇の子、仁徳天皇など)も祀られており、子供の姿をした太郎天像と結びつきやすかったとも言われています。

太郎天童の額がある長安寺鳥居(左)、長安寺六所神社と太郎天童の文字の入った札(右)の画像
 太郎天童の額がある長安寺鳥居          長安寺六所神社と太郎天童の文字の入った札

太郎天の内側には・・・?

 木造太郎天像を含め、仏像の多くには「内刳り(うちぐり)」と呼ばれる手法がとられています。木は温湿度の変化で収縮を繰り返すので、中に空洞を作らないと割れる原因になってしまうのです。
 木造太郎天像は江戸時代の修理の際に、内刳り部分に大量の墨書が見つかりました。その墨書によって太治5年(1130年)に像が造られたことや、この像が「太郎」と呼ばれていたこと、宇佐・都の僧侶・仏師が造像に携わったこと、僧侶・俗人を限らず多くの人々の結願が込められていることなどが分かりました。中でも重要だとされたのが頭頂部に書かれた不動明王の梵字で、木造太郎天像は不動明王への信仰を根底に造られたことが分かりました。左右に控える童子も、不動明王像によく見られる矜羯羅童子・制多迦童子を意識して造られたと理解できます。

太郎天内部の墨書銘(九州歴史資料館『《九州の寺社シリーズ9》豊後くにさき長安寺』より)

頭頂部(左)、頭部(中央左)、胸部(中央右)、腰部(右)​の画像
頭頂部(左)、頭部(中央左)、胸部(中央右)、腰部(右)

木造太郎天及び二童子像の配置(左)、木造不動明王立像(真木大堂)の配置(右)の画像
       木造太郎天及び二童子像の配置           木造不動明王立像(真木大堂)の配置

では、太郎天像は不動明王の像なのでしょうか?

 国東半島には多くの平安時代の不動明王像が残されています。しかし、太郎天像があえて不動明王でなく、童子の姿をしているという事は、国東半島の神仏習合文化の叡智を結集させて、この太郎天像が造り出されたことを示しているのです。
 太郎天像は、簡単には神像とも、仏像とも言えない、何とも不思議な来歴を持った像なのです。

太郎天を厚く信仰した吉弘一族

吉弘統幸肖像の画像 太郎天は戦国時代の英雄たちにも厚く信仰されていたことが分かっています。
 屋山城を築き、長安寺で高い僧職を占めていた吉弘氏一族は、特に太郎天への信仰が厚かったという事が分かっています。その信仰の厚さは、仮名(けみょう、通称のこと)にも現れており、吉弘鑑理(統幸の祖父)・統幸は「太郎」と呼ばれていました。統幸の父・鎮信の信仰は特に厚く、長安寺の堂宇の修理や、祈祷などをかなり積極的に行なっていたことが分かっています。
 吉弘統幸が長安寺の堂宇を再建した際に、太郎天や八幡大菩薩に対して立願した願文の内容が伝わっています。その中で、統幸は「太郎天は大日如来の化身で、悪魔を降伏させる不動明王の霊験を持っている。」とした上で、「六郷山の僧職として仏事に邁進したいところではあるが、武士として生まれた以上、主家・大友家のために戦う天命を全うしなければならない。」と、戦場に生まれた自分の気持ちを素直に書き記しています。
 また、吉弘統幸の従弟・立花宗茂も、都甲谷に生まれたことが分かっていますが、江戸・上野に屋敷を構えていた時代に、母親の守り神として「太郎稲荷神社」という神社を創建したと言われています。太郎稲荷神社という神社名は珍しく、太郎天と関係しているかもしれませんね。

吉弘統幸肖像


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