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戦国時代の香々地・見目から夷谷にかけて活動した武士に”7つの丸が付く姓”があり、「七丸」と呼ばれていました(鬼丸・市丸・金丸・五郎丸・能丸・徳丸・次郎丸)。「丸」の付く苗字は、名田(荘園の中の徴税などの単位)に名残があり、九州北部に多く分布する苗字です。次郎丸・徳丸などについては、南北朝時代の古文書には既に見える地名で、七丸の存在は香々地荘に広がった「○○丸名」出身、もしくはそこに移り住んだ武士が多くいた事を示しています。
中でも五郎丸氏は、香々地の谷の東側、五郎丸名で活動した武士でした。現在も五郎丸の地名は小字として残っています。
香々地町の「七丸」地名が今にも伝わる場所
戦国時代の香々地町は、国東半島の名族「田原氏」が治める地区でした。田原氏の領土は非常に広く、国東半島一帯を治めており(本拠地は安岐城)、香々地地区では家臣の松成氏に支配を任せていました。
松成氏は地元の武士でしたが、南北朝時代の頃に田原氏の配下になったと考えられています。江戸時代には見目村の庄屋を務めた家柄でした。古文書によれば、松成氏は海上交通に長けた武士であったようで、田原親資から酒井津(現・大阪府堺)まで警固船で同行するように要請されている書状が残されています。香々地は瀬戸内海の端に位置する国東半島の守りの要でもあり、リアス式海岸による良好な港が多数ある地域であった事が分かっています。
五郎丸氏をはじめとする「七丸」の武士達は、地域に残る地名や墓地の分布から、戦国時代には松成氏の家臣となっていたと考えられています。
田原親資の書状(松成文書) 香々地の海(長崎鼻)
仏教文化が盛んであった現地において、田原氏は施恩寺(佐古)、松成氏は東智庵(見目)を作って仏教を厚く信奉しました。家臣であった七丸の武士達も仏教を厚く信仰したことが分かっており、七丸の武士達が暮らした地域には多くの国東塔が残されています。
五郎丸地区には、不動堂とよばれる小堂の隣に五郎丸国東塔が残されています。戦国時代の国東塔らしく、笠は強く反り返り、力強い立ち姿をしています。2つの塔は並び立つ兄弟塔であり、同時期に作られた墓塔の役割を果たしていると考えられ、地域を治める有力な武士の群像を思い起こさせます。梵字以外の文字は刻まれていませんが、両塔共に国東塔が作られた時期としては最末期、16世紀の作と推定されており、戦国時代の武将達が活躍した時期の作になります。
五郎丸氏らの活躍は、地域の伝承の中にも息づいています。夷谷に残る伝説に「隠山軍談」というものがあります。
城井谷城(現・福岡県築上町)の宇都宮鎮房は、鎌倉時代から守ってきた領土を奪われた不満から黒田氏に反乱を起こしますが、官兵衛・長政父子に謀殺されてしまい、宇都宮家臣団もそのほとんどが討たれてしまいます。
しかし、難を逃れた僅かな家臣は国東半島へ逃れ、その内の1人である松成遠江守兼之は、旧知であった七丸の一族の暮らす夷谷の「隠れ洞穴(うと)」に隠れることになりました。七丸の武士達は、大友氏が滅亡してからは農民となっていましたが、かつての主君・松成氏の危機を知り、宇都宮の残党達をかくまうことに決めました。
その後、黒田官兵衛は夷谷に宇都宮の残党が落ち延びていることを知り、兵隊を派遣しました。宇都宮の残党と七丸の武士達は、我先にと打って出て、黒田軍と戦いました。特に鬼丸綱宗・松成兼之・五郎丸高政・五郎丸忠虎の大勇はすさまじく、犠牲者が多く出た黒田軍は敗走します。
宇都宮の残党や七丸の武士達は、黒田軍を深追いすることはせずに、思いおもいに分かれ、香々地の谷や赤根の谷に消えていきました。それ以来、夷谷に黒田軍が押し寄せることはなく、宇都宮の残党や七丸の武士達の子孫は今もどこかで平和に暮らしているそうです。
宇都宮の残党がいたという隠れ洞穴 隠山軍談を刻む石碑