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【戦後70年特集】郷土の先人:世界で唯一アメリカ本土を爆撃した日本人 藤田信雄さんを紹介します

ページID:0002046 更新日:2022年10月25日更新 印刷ページ表示

藤田信雄の画像
藤田信雄

 日本がアメリカと激しい戦争を繰り広げていた昭和17年9月、世界で唯一アメリカ本土を爆撃した豊後高田市出身の藤田信雄さんを紹介します。

 戦中戦後を強く生き抜いた藤田さんは、生涯現役のお手本のように第一線で活躍され、戦争がなかったら、人の良い、典型的な日本人としてごく平凡な一生を終えていたことでしょう。
 しかし時代は、彼を必要としていました。その生涯を「アメリカ本土を爆撃した男~大統領から星条旗を送られた藤田信雄の数奇なる運命」~著者:倉田耕一、発行:毎日ワンズ(株)の中から紹介します。

世界で唯一のアメリカ本土爆撃

 昭和17年4月18日、日本の本土が初めて空襲に見舞われました。アメリカ空母から発艦したB25爆撃機16機は、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃しました。国際法上禁じられている「民間人に対する攻撃」が行われ、国民の怒りは沸騰していました。高松宮殿下も出席された軍令部の会議で、「なんとしても報復しなければなるまい、我々もアメリカ本土空襲をやろうではないか」と決定され、その任務を命ぜられた男、それが藤田信雄、帝国海軍のエースパイロットでした。

 昭和17年8月15日、潜水艦・伊25号はアメリカ西岸に向け、横須賀港を出港しました。同年9月9日未明、零式小型水上偵察機に乗る藤田さんは、オレゴン州の沖25海里のところ、潜水艦の甲板からカタパルト射出で飛び立ちました。約40分でオレゴン州に入り、エミリー山に爆弾2発を投下、炎上を確認しすぐさま帰艦しました。そして、同月25日にも再び空襲を成功させています。これが太平洋戦争で、ただ一度だけ行われたアメリカ本土への爆撃です。

零式小型水上偵察機の画像
零式小型水上偵察機
エミリー山の爆撃地の画像
エミリー山の爆撃地

 操縦していた藤田さんは当時30歳。零式小型水上偵察機のベテランパイロットでした。藤田さんは、昭和7年に徴兵され佐世保海兵団に入り、すぐに霞ヶ浦航空隊の第20期操縦訓練生に合格、翌年に水上偵察隊搭乗員となっています。そして、太平洋戦争が始まった昭和16年に、完成したばかりの潜水艦伊25号の飛行長となりました。
 アメリカ本土爆撃後は、霞ヶ浦航空隊や鹿島航空隊の教官となり、そして特攻隊になりましたが、その出撃の一週間前に終戦を迎えました。戦後は、航空会社や自衛隊からの誘いがありましたが、もう飛行機には乗りたくないとのことで全て断ったそうです。

終戦、アメリカからの招待

 昭和37年4月、藤田さんが経営する金物会社に一本の電話がかかってきました。内容は、「当時の官房長官、大平正義氏が至急お目にかかりたい」というものでした。指定された赤坂の高級料亭で、大平官房長官から切り出された話は次のとおりです。
 「我々は、外務省を通じてあなたの身元をアメリカに伝えました。アメリカは、真珠湾攻撃や捕虜虐待などで日本軍人への反感はまだ相当に根強いものがあります。しかもあなたはアメリカ本土を爆撃した唯一の日本人です。万一、渡米して、報復を受けたとしても、日本政府はあなたの身を守ることができません。日本政府は藤田さんが渡米されても一切関知しません。」というものでした。藤田さんは、「私も軍人の端くれ、万一の場合は、彼らの前で、腹を切る覚悟です。日本刀を持って乗り込むつもりですよ。」と答えたそうです。

 大平正義官房長官と会って間もなく、外務省経由で藤田さんのもとに一通の封書が届きました。藤田さんは何度も読み返し、内容の不可解さに首をひねったそうです。
 それには、「アメリカは開国以来、外敵の侵入を許したことがなかった。日米戦争において貴殿はこの史上の記録を破って、単独でよく、アメリカ軍の厳重なレーダー網をかい潜り、アメリカ本土に侵入し、爆弾を投下した。貴殿の勇気ある行動は敵ながら実にあっぱれである。その英雄的な功績を讃え、さらなる日米の友好親善を図りたい」と書いてありました。
 複雑な思いとは裏腹に、アメリカ本土に降り立った藤田さんを待ち受けたのは、「オーッ!」というブルッキングス市民の大歓声でした。主催したブルッキングス青年会議所の「戦争を美化するものではなく、あくまで日米両国の友好と平和親善のため」という趣旨に賛同した市民からの心温かい歓迎でした。
藤田さんが、万一の場合に自決しようとして持ってきていた先祖伝来の日本刀は、平和を誓うしるしとしてブルッキングス市に寄贈することとなりました。

日米親善に尽力

 藤田さんは、その感謝と今後の日米親善、ひいては人類の幸福という大きな目的を掲げ、昭和60年のつくば科学万博に、自費を投じてアメリカの女子高校生3人とその家族を招待しました。
 「実は、昭和55年に会社が倒産しており、なかなか実行できなかった。でも貧乏になると、早くしなくては、と考えるようになり、かつての教え子の会社に勤めてお金を貯め、ようやく招待できたんです」(娘の浅倉順子さん)
 これに対して、当時のレーガン大統領から藤田さんに、ホワイトハウスに一日掲げられた星条旗と、サイン入りの感謝状が届けられました。その中には、次のような感謝の言葉があります。

To Nobuo Fujita
With admiration for your kindness and generosity.
(貴方の好意と惜しみない心に敬意を表して)

アメリカの女子高校生を招待の画像
アメリカの女子高校生を招待
レーガン大統領からの感謝状画像
レーガン大統領からの感謝状

ブルッキングス市の名誉市民に

 その後も藤田さんは、爆撃地点に植樹をするなど、ブルッキングス市を三度訪れています。これらの功績で、藤田さんはブルッキングス市の名誉市民の称号も与えられました。

 しかし、晩年は不幸が続きました。まず、長男が平成6年に病死。翌年、妻のあや子さんが亡くなり、そしてその頃、藤田さんの肺に影が見つかりました。
 「肺がんでした。でも最後まで痛みはなく、入院するまでは車を運転するなど、元気でした。」と、順子さん。そして平成9年9月30日、藤田さんは85歳で亡くなりました。この日は、ブルッキングス市の友人が、同市議会で藤田さんが名誉市民の決定を受けたという証書を持って来ることになっていましたが、思いがけず葬儀に参列することになりました。遺骨の一部は、その友人が分骨して持ち帰られ、また一周忌には、浅倉さんご夫婦と親しい友人により、エミリー山の爆撃地点に散骨されました。
 晩年の藤田さんは、「なぜアメリカ人というこんな人情味のあふれる人たちと戦争をしなければならなかったのか」と後悔されていたようです。

 藤田さんの好きな言葉は「貧者の一灯」(たとえわずかでも、心のこもった行為こそ尊いということのたとえ)でした。

 ※この記事は、著者の倉田耕一さん、娘の浅倉順子さんのご協力をいただき掲載しています。


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